(2)人生はあなたにやさしい?

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

もう少し、「家族の庭」について考えてみます。

この映画で描かれている主人公の周りの登場人物たちの人生はどれもあまりうまくいっていません。

まるでうまくいかないのが人生だといっているようです。

そのうまくいっていない彼らの人生の断片を見ているだけで、こちらの胸はしめつけられます。
特別悪人ではないけど、どこか調子がおかしい人・・身の回りにいくらでもいそうだし、実際自分が誰かにとってそうかもしれないのです。

時々考えるのですが、人生のある地点に何か別れ目みたいな、あるいはポイントみたいなものがあったとして、そのことも自分で自覚していた時、我々はいつだってそこに立ち戻って道を修正できると思っています。そのポイントはまだ目で見えています。たとえ、道がずれても、あえて、そうしたのだという自覚とともに。しかし、道は時間が過ぎるごとにそのポイントから少しづつ外れ、10年も経つとそのポイントがどこであったかすら景色が変わり過ぎて見えなくなってしまう。そしていろんな記憶すら曖昧になってしまう。

自分でもその時になって思うのです。いったいオレはどこで間違ったんだ?

あるいは選択の集積。
何かの小さな選択をするごとに白い紙に書かれた道が進み、左へ左へ。時に上へ。選んだ矢印はどんどん検討外れの方向へ向かいます。いつしか紙を足して足して、時間軸と選択からなる折れ線グラフは地図のないところまで進んでしまう。選択の数があればある程、複雑に道が枝分かれしてしまい、最初にした選択すら何だったのか思い出せない。

「人生はあなたにやさしい?」

主人公は扱いに困っている友人に向けて、そう言います。言われた方は一瞬考えた後「ええ、もちろんうまくいってるわ。何の問題もない」と見栄を張ってごまかすように答えます。見ているこちらは、彼女がそんなことないのを知っているので辛くなります。まるで自分が主人公の女性に聞かれてそう答えたかのように。

でもそこで、思うのです。
本当のことなんていえるわけないじゃない、と。

あるいは、そこで彼女が「ええ、うまくいってない、むしろ最悪だわ。このままじゃどうやって生きていっていいかわからないの」と素直に答えていたら、と。

この映画の秀逸なところは、周囲にいる誰か、親戚の誰か、あるいは自分自身の中の一部が、登場人物の誰かにそっくりなところかもしれません。

誰の人生もうまくなんかいってないよ、マイク・リー監督のこの映画を通して言いたかったことは、実はそんなことなのかしら、とふと思ったのです。

人生がうまくいく、とはどういうことか。
人によって価値観は違います。

「自分の人生に責任を持たなくちゃ」と、主人公は最後の方で困った友人に伝えます。彼女は主人公にとても依存しているのです。

ラストのショットをどう受け止めるのか、見る人の感じ方でいかようにも解釈ができるように監督は映画を終えます。

僕には絶望ではなく希望が感じられました。

きっと彼女は自分の人生を作るのは(変えられるのは)自分でしかないと、もうすぐ気づくから、そして変わろうとするから、それが感じられたからだと思います。

『 人生はあなたにやさしい? 』

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

葉桜です。
花びらの絨毯、花びらが舞う中、自転車で走るのが好きです。

それも明日が最後かなと思うと少々寂しいですね。

『 人生はあなたにやさしい? 』

マイク・リー監督の映画『 家族の庭 』で主人公の女性が職場の同僚に投げかけるさりげないセリフです。

マイク・リー監督の作品はどれも人生のきびしさや生活の苦しさと英国の市井の人々を描くのがとても上手な方で、僕は大好きな監督です。

この『 家族の庭 』では四季とともにある初老の夫婦の元に訪れる少しこじれた人生を送る友人や親戚が訪れ去っていく様子を淡々と描いています。夫は地質層学者、妻の方は病院勤務の心理カウンセラーという設定です。

妻の職場の自意識過剰なバツイチの独身女性(多分40代)、夫の友人の極端に太った独身の中年男、妻を失くした偏屈な兄、30歳の息子にやっとできたやたら陽気なGF・・。

『 人生はあなたにやさしい? 』このセリフは実にさりげなく会話の中で主人公の口から発せられ、登場人物と同じように見ているものをはっとさせられるのです。

この初老の夫婦は実に安定した精神状態の設定です。
そこに集まる人々の人生がほころび、あるいはほころびかけると皆、この夫婦の元に訪れ心情を吐露し、また自分の人生に向き合うのです。

考えてみるとこの映画には若い人が出てきません。
息子カップル以外、あとは中高年ばかりです。

それでも、というより、だからこそ自分の人生に惑い、打ちのめされ、傷つき、安定したふたりの元を訪れるのかもしれません。

この辺り、マイク・リー監督は登場人物との距離感がとてもよく、優しすぎもせず、突き放しもせず、どちらかと言うと見守っているような演出です。

少し痛いけど、しみじみと心に染みるいい映画です。

果たして「人生はあなたにとってやさしいですか?」と誰かに聞かれたら、あなたはどう答えるでしょう。

僕なら・・どうか・・?
今夜、ゆっくり考えてみようと思います。

論理的枠組みにおいて無関心でいること。

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

二日続きの夜の小雨でだいぶ桜が散ってしまいました・・。

カッパドキアを舞台にした『雪の轍』というトルコの映画のワンシーンにこんな下りがあります。

「悪に抗わないとはどういう意味だと思う?解釈を聞かせて。論理的な定義を聞いているのよ。」
妹に、そう聞かれた初老の男はこう答えるのです。

「 論理的枠組みにおいて無関心でいること 」

薄暮から夜へ移ろうとしていた時間に、世田谷駅から梅が丘に向かう一本道を自転車で走っていました。
昼間の温かさが嘘のように急に冷え込み、花冷えというのかな・・などと思っていたとき、前方の歩道に小さな男の子が見えました。
広い歩道の真ん中にぽつんとひとりです。親らしきひともありません。
前を走る数台の自転車は皆通り過ぎていきます。
一瞬、自分にしかこの子は見えていないのじゃないかと思いました。
それくらい周りはその子の存在を無視していたのです。誰も振り返りもしないし止まらない。
自転車が近づくにつれ、その子がちゃんと実在して、泣いているのがわかりました。
僕は余計に自分にしか見えてないとの思いが強くなります。
だって、5歳か6歳かくらいの子どもが暗い夜道でひとりで泣いていたら停まらないまでもすれ違いに少しくらい振り返りませんか。

その子の横で自転車を停めると「どうしたの?」と聞きました。
その子は泣きながら「帰ってくるなと言われた・・」と言いました。
「そうかぁ、それは困ったね。お家は近いの?」
「うん・・」
「ママは?お家までの道はわかる?」
「うん・・」
「じゃぁ、大丈夫?ひとりで帰れる?」
「まだ帰ってくるなって言われた・・」
なんか嫌な予感がしてしまいました。
いくつかのパターンをシュミレーションしながら、間が持たずに「飴、食べる?」と聞きました。
鞄の中にレモンドロップがあったから。
その子は小さく頷きます。
僕が箱から一粒出して取らせてやると、その子は恐る恐る飴を取り出しました。送っていくか・・と思いかけていた時、かなり後ろの方から「そこのひとーっっ!」という子どもの声が聞こえました。少年がすごい勢いで走ってきて「何してるんだ?」と言うのです。
泣いていた子のひとつふたつ年上でしょうか。
「ひとりで泣いていたから、どうしたのって聞いたんだよ」というと、なぜかすごく僕に対して怒っているのです。僕のあげた飴にも怒り、それを食べた(すごい勢いでぎゅっと握りしめた小さな飴を口に隠すようにして食べた)多分、弟にも全力で怒っています。
まるでひとり言の大声のように「知らない人から食べ物をもらうなんて!」と子どもらしい遠慮のない生っぽい言い方で、オーバーに天を仰ぎ、地団駄を踏みます。

僕は少々、その子の言い分に腹が立っていました。
だったら弟の面倒くらいちゃんと見ておけよ、と。

やがて、後ろの方から「すいませーん!」という母親(多分)の声と猛スピードの自転車がやって来るのが見えました。
僕は「大丈夫でーす!」と手を振り返して、じゃあね、とふたりを残して坂道に向かいました。

多分、僕は「虐待」を想像し
兄と母親は「誘拐」を想像し

それぞれ善意ではなく悪意寄りの事態を想像していたのです。

テレビのニュースで繰り返される子ども絡みの嫌なニュースに洗脳されているから。

そして、それが特別なニュースではないと知っているから。

暗くなりかけた街灯の少ない道で子どもがひとりで泣いている時・・それを偶然通りがかって見かけたら、2016らしい大人の振る舞いってなんだろう?そんなことを考えながら坂道を上りました。

多分、僕はあの子に余計なことをしたのでしょう。

間をつなぐのに飴をあげました。
母親にその子のことを怒らないでくださいね、と言わずにその場を去りました。

あの子が、あの後、母親にひどく怒られませんように。
それだけを思いました。

『 ママに、まだ帰ってくるなって言われた・・ 』

夜道で出会った泣いている子どもに、そう言われたら、あなたはどうしますか?

アンガーマネージメントができるならいいけど・・

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

桜が満開です。
今日の小雨で早く散らないと言いなと思っていたら、雨が上がりました。
まだ大丈夫ですね。

アンガーマネージメント、ここ数年よく耳にする言葉です。

みなさんは怒りの感情とどう向き合っていらっしゃるでしょうか。

ここでは他者への怒りと自分への怒りと分けて考えてみたいと思います。

まず他者への怒りですが、これはある意味感じるのは仕方ないことですよね。
相手への怒りの理由はたいてい価値観・価値基準の違いが原因です。
それが全く同化するなんてあり得ませんものね。

目の前で起きている不快な出来事(それが仕事上であれ私生活であれ)に怒りの感情が起きるのは当たり前なのです。
自分と違うからです。

でも、自分と他者は違うのだから仕方ない・・と割り切れることばかりではありませんよね。
僕もそういう局面にたまに出会います。

そういうとき出来事に対して『私の内面』は『怒っている』だけど『私の外面』は『怒っていない』と演ずるといずれ相当なストレスが溜まってきますが、その場は荒れませんし、もしかしたら『怒らないいいひと』という評価が得られるかもしれません。

では怒りを感じた『私の内面』はどこに向かうのでしょう。

蓄積された『怒りの感情』はいずれどこかに霧散するのでしょうか。

人によるのかもしれませんが、すぐにゼロにするのは難しいのではないでしょうか。

かといって、ずっと怒りの感情を引きずっていれば精神衛生上かんばしくありません。

ひとつは時間が解決するのを待つという手がありますよね。
人間は忘れる動物。大抵のことは忘れるし、細かいことは全ては覚えていません。
ただそれには三日の人もいれば、三ヶ月のひともいるだろうし、何年もかかることだってあります。

一年に一回くらいしか怒らないのならそれでもいいかもしれませんけど
そうもいかないひとはどうしたらいいのでしょうか。

そもそも怒られないって相手にとってどうなんでしょうか。

考えていくとキリがありません・・。

逆説的ですが『怒ったふり』を演ずるのはどうでしょう?
このとき大切なのは『怒っている内面』をそのまま出すのではなくて『怒っている自分』を客観的に演ずることです。例えば、彼氏が浮気したとします。当然、あなたは怒りますよね。当たり前です。暴れたいですよね。当たり前です。それを無理して『怒らない』なんて不自然です。しかし、その怒りの感情を感じたピークで『怒る』と損かもしれないのです。ちょっと間を置く、一日でもいい、それから『怒る』のです。その間は『私はあなたの浮気を怒っている』というメッセージが確実に伝わっている時間です。私は直接は怒ってはいません。しかし『怒りの感情』は相手に伝わっています。その間にじっくり冷や汗をかいてもらってから、私は怒っているし、傷ついたとはっきり伝えるのです。相手を非難するのではなく、私はこう感じているということだけを伝えます。

メールなども即返信するのではなく、文章は書いてもいいから、一日保存し、翌日読み返してから送るようにする。これも案外冷静になれます。

なんていうのも、ひとつの方法かもしれません。

アンガーマネージメントの本を読んでいると、「いやそうかもしれないけど、それはなかなかできないって・・苦笑」という文脈に出会います。

怒られて覚える・・というのは古い考え方で、褒めて伸ばす・・というのが主流なのかもしれません。

怒り方を変え、頭ごなしにいかない、対話を持つ、カラッと怒る、後を引かない、など工夫をするのも自分なりのアンガーマネージメントだと思います。

喜怒哀楽とはよく言ったもので、この四つの感情は人間らしいものです。

四つとも無理に押さえ込まないで、うまく付き合いたいですね。

言うは易し。

ですけどね。

道草、もしくは遠回りする。

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

昨夜の雷とヒョウには驚きました。
春の天気は移ろいやすいですね。

今朝は快晴です。

夏目漱石の晩年の小説に『道草』というものがあります。
僕はこの小説がことのほか好きです。
若い頃はよくわからなかったのですが、今となりますと漱石の中で一番好きかもしれません。

漱石がこの小説で何を言いたかったのかは分かりませんが
日々の暮らしのあれこれが主人公の本来の目的(学者として成功すること)の邪魔をしながら物語は進みます。その邪魔なことに不本意ながら対応する様を描いているとも言える小説なのですが・・。

その『道草』的なあれこれこそが人生であり、本来の目的よりどこか真実味があり滑稽で生活に満ちている・・そんなことを漱石は達観していたのかもしれませんね。

肩の力を抜くには、膝の力を抜く。
そうすれば肩の力が抜ける。

片の力を抜けというひとは、見えるところだけ言ってはいけない。

先日、ニュースのインタビューでイチロー選手が語っていました。
ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

この方、本当に自分の言葉を持っています。

僕からすれば、イチロー選手は何でも最短距離を選んで実践してきたイメージが強いのですが、彼はこうも言うのです。

遠回りするって大事。

合理的な考えはきらい。

遠回りすることが近道だ。

近道して仮に辿り着いたとしても深みが出ない。

うーん・・意外です。
それでいて核心です。

特に僕は最後のセリフに惹かれました。

『 近道して辿り着いたとしても、深みが出ない 』

何でも効率やスピードが求められる時代だと言われてずいぶん経ちます。

しかし、逆に疲弊していくひとも多くなりました。

無駄なこと。

遠回り。

思考の道草。

それをあえて試してみるのもいいかもしれませんね。

だって春ですから。

私の中のもうひとりの私。

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

今日は春らしい暖かな日差しです。
土曜日の午後をいかがお過ごしでしょうか。

『私の中のもうひとりの私』という邦題はなかなか素敵です。
原題は『Another Woman』。主演はジーナ・ローランズ。1988年、ウッディ・アレンの監督作品です。
主人公は50歳の女性。大学で哲学を教えていて立派な夫(お互いバツイチ)がいます。
本の執筆のために借りたアパートの隣の部屋が精神分析医で、そこでの会話が配管の故障でなぜか空気孔から聞こえてきて・・・。というお話です。

アメリカの監督で精神分析が似合うというか扱い慣れているのはウッディ・アレンだというのは多くの人に賛同いただけそうです。

この時代(1988)は特にそうかもしれませんが、都会(NY)における分析医のある種の流行のような感じは日本にいても肌感で伝わってきました。
例えばロバート・B・パーカーの大人気シリーズ・スペンサーものでも主人公のパートナーは精神分析医だったりします。

この映画の中では主人公は分析を受けるわけではありません。
相談者の話すことを聞いているうちに(意図しない盗み聞き)自己の内面に隠された「もうひとりの私」にいつしか気づいてしまい、自身の生活が実は虚偽に満ちているのではないか、自身の振る舞いは他者にどう映っていたのかを内省するのです。その結果、思わぬ展開になっていくのですが、それは是非DVDをご覧ください。

他者の悩みを通して自己を見つめ直すことは、僕にもよくあります。
相談者の悩みは直接は<私の悩み>ではありません。しかしお聴きしていると、それは<私の悩み>の一部を内包しているものであり<相談者だけの悩み>ではなくなります。

そうして深く共感したり受容したりを繰り返しながら全身でお話をお聴きしています。

私たちは多面的です。
角度を少し変えれば、色々な私たちが存在します。

あなたの抱えている問題を言葉にして語ることで、<あなたの中のもうひとりのあなた>に出会えるかもしれません。

春の風が冷たいということ

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

気がつくと3月の下旬に入りました。
なんだか早いものです。

春は三寒四温といいますように
天候がころころ変わります。

今日も風が冷たかった。

渋谷のマークシティの裏通り辺りは昔ながらの渋谷がまだ感じられます。
246に斜めに抜ける通り沿いに渋谷古書センターという本屋ビルがあり、二階にFlying Booksというセレクトがユニークな古書店があります。そこで数冊面白そうな本をみつけました。

『魂にメスはいらない』著・河合隼雄+谷川俊太郎
『人生ドラマの自己分析』著・杉田峰康
『カウンセラーの<こころ>』著・佐治守夫

河合先生のこの本は文庫で持っているのですが、単行本は扉絵の曼荼羅が奇麗だったのでつい購入。
他の2冊は立ち読みするにはもったいない内容だったのでので購入。

1979 1974 1996 。

今回手に入れたそれぞれの本が出版された年号です。

書かれている内容は、今の時代でもそのまま生かせるどころか
当時より、余程必要とされるものばかり。

著者の方々の慧眼には改めて驚かされます。

渋谷の街を少し歩きました。

薄曇りのような空。

冷たい風。

道玄坂を上りながら昼飯難民になり

何を食べるか決められないまま、路地をうろうろしていました。

この辺りは10代の頃から歩き慣れたエリアなのに時々知らない街を歩いているような錯覚があります。

記憶と実際が違うからですが、それでも時おり知った店が見つかります。

そうだ、ムルギーカリーにしようと思い、店に向かいますと

以前と変わらない佇まいです。

重い扉の奥は多くの若い人で賑わっていました。

もう僕の知っている店のおじいさんもおばあさんもいません。

代わりに女性がふたりできびきびと切り盛りしていました。

賑わった店内を見ているとタイムスリップしたみたいです。

今は1979年だろうか・・。いや、もっと前の時代か。

カレーで暖まった身体に春の冷たい風は気持ちよかったのです。

コートのボタンを外して歩いてみました。

自己の内面を語るということは

まるで春の冷たい風のようなものだ、とたまに思います。

相反するというのでしょうか。

3月は寒い日が多いです。

閉ざした心や葛藤を抱えている内面は、春の日差しと裏腹です。

ゆっくり春を待ちましょう。

ゆっくりやりましょう。

そうお伝えしたくなる春の風でした。

春の旅人

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

ここ数日、晴れているのに空気は冷たく、真冬のそれほどではないものの
まだまだコートは脱げません。

先日、アメリカのバークレー在住の素敵な大先輩とお会いする機会がありました。

彼女は40年ほど前に吉祥寺にあったカウンターカルチャーを発信していた伝説のTというお店を畳みアメリカに渡ったそうです。そのころのお話も大変刺激的でした。しかし、アメリカに渡ってからの交流関係がまたすごくて、A.ギンズバーグやG.スナイダーや・・もう伝説クラスの詩人たちとの交遊や暮らしぶりをお伺いできました。

時代、でしょうか。

新宿の靖国通り沿いにあるNEW DUGで珈琲を飲みながら、初めてお会いしたにもかかわらず色んなことをお話ししました。

彼女のアメリカでの活動のひとつに<物事をオープンにダイアローグにする・・>というものがあるそうです。
通常のエンカウンター・グループのように抱えている問題が共通するメンバーが自己の体験や抱えている問題を話し合う、というものとは少し違うようです。

そこで語られることは何でもいいそうで、何か心に抱えていることを自由に話し合える場を設定しているそうです。相手の意見を否定したり、ディベートしたり、巻き込もうとするのではなく、安全な環境で自分の意見を述べ、グループで話し合うそうです。

なるほど。

それは楽しそうです。

漠然としていることでも、言葉にすることはとてもいいですよね。

考えるきっかけにもなります。

<私の問題>は<誰かの問題>かもしれません。

<誰かの問題>は<私の問題>かもしれません。

彼女が言っていたことで印象的だったのは『昔のひとは難しい問題を難しくいうのが好きだった』というひとこと。

思わず微笑んでしまいました。

いくつかの本を読んでみないかと言うのではなく、さりげなく話題にしてくださいました。
今は便利です。その場で検索してiPhoneで買えてしまいます。
忘れないうちに何冊もクリックしました。

その中でもユニークだったのは鳩椋十さんの『山窩調』という小説です。

その本はなかなか探すのが難しかったので家に戻って検索し『山窩調』の中の短編が収められているアンソロジーをまず手に入れたのですが、かつて山間に暮らす民のことを綴った短編集には今の我々が遠くに忘れてきた物語がいくつも読むことができます。

さて、その方と今度いつお目にかかれるか、それはわかりません。

それでも、今回の出会いはいくつものヒントを頂くことができたし
いずれ僕がバークレーに訪ねていってもいいのだしな、と新宿駅で別れた彼女の小さな後ろ姿を時おり思い出しています。

トラウマあるいは強烈な記憶は20年経っても昨日のことのように蘇る・・

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

3月に入ってようやく暖かくなったと思っていたら、昨日今日とすっかり寒くなりました。

今日は3.11です。
東日本大震災で被害に遭われた方々に追悼の意を捧げるとともに、被災地で不自由な生活をされている多くの方々に想いを馳せたいと思います。

先日、山手線の某駅の改札口を出たあたりで、知人にばったり会いました。
その昔、とあるハードな仕事(広告)を共に作ったひとです。

立場も会社も違っていたのですが、同じ激しい渦に巻き込まれていました。
せっかくなので珈琲を飲もうということになり近くのカフェへ。

当時のことにまつわる思い出話をしていたのですが20年も前なのにまるで、少し前の出来事のように思いました。

あれから20年も経っているのに・・。

それって、実に不思議な感覚だし、記憶というのは多々自分の都合で塗り替えられているのだなと思うこともありました。

ひとの記憶というのは、その体験が強烈であればあるほど
何かしらが脳内のどこかに刻まれ
何かきっかけがあれば
ふとした拍子に蘇るのだなぁと帰りの電車の中で考えていました。

そのひとと話している間、時おり目頭が熱くすらなっていたのです。
それくらい、自分にとってその記憶は鮮明で辛くきついものだったのです。

忘れたつもりでも
ほんとうは忘れていないこと
結構あります。

今日はとても寒いようです。
暖かくしてお過ごしください。

グッド・ウイル・ハンティング

こんにちは。
心理相談室 LAUNDRY カウンセラーの村本大志です。

もうすぐ春が来る・・のでしょうか。

今日は暖かく過ごしやすいですね。

映画『グッド・ウイル・ハンティング』は、 春 を感じる作品です。
観たことがある方もとても多いと思います。

この映画の製作当時から考えると、次作のバットマンをベン・アフレックが演るというのもなんかすごいキャスティングですが90年代から活躍しているのでアメリカ人にとっては自然なのかもしれないですね。

その若きベン・アフレックとマット・デイモンの幼馴染二人で脚本を書いたものが、この作品『 グッド・ウイル・ハンティング 』です。

ベン・アフレックも主人公の地元の不良友だちとして味のある役で出演しています。

幼少期の激しいトラウマから心を閉ざしている不良めいた数学の天才少年が(設定年齢21歳)妻を失くした失意の中年心理学者と心を通わせ、新しい人生の一歩を踏み出す・・。
と書いてしまうとシンプルですが、この映画も語り尽くせない魅力がいくつもあります。

中でもロビン・ウイリアムスの奥深い演技にはやはり心を奪われます。

目がいいんですよね。

思慮深く

悲しみをたたえ

慈悲深い

そんな瞳です。

若きマット・デイモンの真っすぐな芝居を横綱相撲でがっちり受け止めているんです。

あんな風に受けられたら若い役者は嬉しいだろうなぁ・・(しかも今回は自分で書いた脚本ですから)

演技とは、かくも人間力が反映されてしまうとすると、実に奥深いものです。

ガス・ウ”ァン・サントは音楽の使い方がとてもうまい監督です。

ある意味、この作品は正当派な映画なのですが、映画音楽がインディーズ映画的な匂いを醸し出すものですからハリウッド・メジャー的な感じがあまりしない。

どこかサブカルチャーな雰囲気を残してくれていて嬉しい。

キャストのバランス感も見事です。

ヒロインのミニー・ドライウ”ァーも2000年代のハリウッド映画のヒロインとはひと味違うクセのある顔立ちです。
彼女の演技も愛する男の心をなんとか開こうとするところなんか、とてもぐっとくるものがあります。

カウンセリング・シーンは、リアリティより物語を進行させることを選んだのでしょうが、ロビン・ウイリアムス演じる心理学者は、頑なに<人生の選択をするのは本人であり、私は彼が話すのを待つだけだ・・>との姿勢を崩さないあたりは本道から外していませんし、それがそのままこの映画の主旋律でもあります。

アメリカ映画の中に心理学者やカウンセラーが登場すると、ほぼ彼らも問題を抱えていたり影を引きずっていることが多いです。その辺りは映画的な仕掛けの意味合いもあるでしょうけど、彼らが決して聖人ではなく市井の人々であることを示唆しています。

映画『グッド・ウイル・ハンティング』のもつ魅力的なシーンはいくつもありますが、やはり主人公と心理学者の心が本当に触れあう瞬間の素晴らしさに他ならないでしょう。
そのシーンでの二人の斜に構えない演技は、まっすぐに人の心を打つものがあります。

< 演ずる技術 >が同時に備わったこの映画のピークです。

多分、90年代の終わりのアメリカ映画って、こういうものがこういう風に描かれる最後かも知れません。
2000年代に入ると、もっと設定が複雑でダークで、デジタルを絡めた物語が多くなっていきます。

携帯も登場せず(雨の中、公衆電話彼女に電話する!)Macらしきものはありますが、あくまで背景の小道具の範囲内で、使用すらされないのです。
あくまで登場人物たちはアナログに関わり合い、不器用にもがきます。

デジタルの普及は我々の生活を便利にしてくれました。
映画もはるかにデジタル技術力があがり表現の幅も広がりました。

それでも、心を本当に打つものは生身の俳優が(人間が)
登場人物になりきった瞬間なのだとこの映画を見直してみて改めて思った次第です。
カメラワークはあくまでシンプルで、ナチュラル。物語を進行するためだけに尽力を捧げています。
とても美しい撮影です。

ちなみに、この映画の原題は『GOOD WILL HUNTING』で邦題と同じです。
主人公の名前も WILL HUNTING というのですが、直訳したり意訳してみたりすると
なかなか含蓄がありますよね。

英語って、こういう韻を踏むと詩的です。